奈良時代 多田銀銅山の歴史は古く、東大寺の大仏建立のために銅を献上したと伝えられています。
天禄元年(970) 山師の金瀬五郎が白金を発見し、多田源氏の祖、源満仲によって金懸間歩が開発され、以後、銀山を中心に多田銀銅山は多田源氏の重要な宝庫となりました。
平安時代後期長暦元年(1037)、能勢に採銅所が置かれたことが、鎌倉時代の記録「百錬抄」等の資料にみえ、古くから広大な金属鉱床地帯であったことが想像できます。
天正年間(1573~91) 豊臣秀吉の時代が第一隆盛期で、大坂城の台所(財政)を潤した台所間歩や秀吉の馬印に因む瓢箪間歩、千石間歩など、秀吉ゆ かりの坑道が今も残されています。豊臣政権の重要な財源になりました。
江戸時代の万治3年(1660)、大口間歩で銀の大鉱脈に到達し、翌年、幕府の直轄地となり、代官所が置かれて第二の隆盛期を迎えます。銀山の入り口4ヶ所に口固番所が設けられ、通行税も徴収されて厳重な警護体制が敷かれました。地元に残る古絵図には4つの神社と7つの寺や、相撲場・四軒茶屋・芝 居小屋などの娯楽施設も描かれ、小都市を形成していたことがうかがい知れます。
明治時代には、鉱山王と呼ばれた堀藤十郎が採掘権を取得し、選鉱機械や洋式製錬所など最新設備による近代化を進めました。その後も三菱や日本鉱業に引き継がれました。
昭和48年(1973)日本鉱業多田鉱業所の閉鎖に伴い、一千余年にわたる長い銀銅山としての歴史を閉じました。
平成27年(2015)鉱山遺跡としては全国で8番目,県内では初めて国史跡に指定されました。